今から400年前の創建後、江戸時代末期に一時寺は荒廃に瀕したが、明治の初年、藻凕義泰和尚が荒廃した寺を再興し、法地に昇格して妙心寺末となった。
江昌寺境内には明治前期の仏教界の中心人物であり、四度京都妙心寺の管長を務めた文奕無学禅師の顕彰碑が建っている。地元神洞出身の無学禅師は、少年時代を清泰寺で修行し、その後二十数年にわたり全国を行脚、民衆教化に尽力し、庶民の間に立って常に観音信仰を説いてまわった。今も、無学さんと呼ばれ、この地方の伝説の高僧として親しまれている。
また、境内の弘法堂には近在の薬師堂から移された古い仏像が安置されている。市内最古の仏像で造像は約1000年前の十一面観音と推定されています。
・1月15日
・3月21日
・6月頃
・8月2日
・10月上旬
大般若会
弘法講
花園会総会
施餓鬼会
水子供養
開山 1615年(元和元年)
清泰寺四世 梁屋祖棟和尚
本尊 観世音菩薩
霊場 中濃八十八ヶ所 第62番
住所 美濃市神洞610
電話 (0575)34-0355
・東海北陸自動車道 美濃IC 20分。
無学禅師は1819年美濃市神洞の一農家の次男として誕生しました。誕生の時、両親が男子であったなら出家させますからと観音様に安産をお祈りしたと言い伝えられ、生家が豊かでなかったこともあって幼時を他家で養われ、8歳の時、清泰寺で得度出家し、住職の梅山を師としました。
少年時代を寺小僧として修行し、16歳の時に清泰寺を離れ、関市の大雲寺で3年を禅の修行に費やし、その後さらなる修行のため雲水僧となり諸国行脚の旅に出ました。大阪から山陽・山陰の寺々で苦行を重ね、22歳で江戸に出て学び、九州福岡の梅林寺に留まるまでの20数年間は克苦修行の日々が続きました。
明治維新とともに仏教には排仏の声が高まってきましたが、その難局にも関わらず次々と要職に就き、仏教界の中心人物として難局打開に尽力しました。
また、山岡鉄舟や陸奥宗光など維新の元勲といわれた人々の多くが無学禅師に帰依(きえ)し、深い親交を結んだことからもその偉大さが伺われます。